ある中学教師の育休体験をもとに
彼は社会科の教師だった。チャイムの鳴る教室と、夜遅くまで灯りの消えない職員室。それが彼の日常だった。
妻が言った。「育休、取ってみる?」
軽い一言だった。けれどその一言は、彼が思っていたよりずっと遠くまで転がっていった。
翌年の春、彼は教壇を離れた。代わりに立ったのは、台所だった。
緊急事態宣言のさなか、外に出ることもままならない。娘と二人きりの部屋で、慣れない手つきで哺乳瓶を洗い、離乳食をつぶし、洗濯物をたたむ。誰にも相談できない。声を出す相手が、まだ言葉を持たない小さな人しかいない。それがどれほど静かで、どれほど重たいか、彼はそれまで知らなかった。
妻は復帰していた。でも心配して、一つのものを残してくれた。冷蔵庫に貼るマグネットボード。一日の家事がひとつずつ書いてある。終わったら裏返す。裏面には「おつかれさま」と書いてある。
誰も見ていない台所で、彼は一枚ずつマグネットを裏返した。「おつかれさま」「おつかれさま」「おつかれさま」。声には出さなかった。でも、その四文字に何度も救われた。
一年後、彼は教壇に戻った。生徒が聞いた。「先生、育休ってどうだった?」
彼は少し考えて、こう答えた。「人生で一番長くて、一番短い一年だった」。